今思えば、私が浅はかだったのかもしれない。



私の軽はずみな行動が、まさかこんな因果になって我が身に降りかかるとは思ってもいなかった。



私は今、後悔の念に打ち震え、過去を呪い、自分を戒めている。



もしも1度だけ奇跡が起こるというのなら、私は時を戻したい。



過ちを犯す前の、あの平凡な時間に。



そう・・・あの男に再会する前の日に。






あれは新宿に買い物に出た日の事だった。



知人の結婚祝いを見立てて来るよう主人に言われ、デパートでブランド物のバスタオルセットを購入した私は、その包みを抱えて駅へ向かって歩いていた。



平日の午前中だというのに、通りは往き交う人達でまっすぐに歩くことさえ難しい。



私は包みをなるべく傷付けないよう、縫うように人波をくぐっていた。






「望月~、望月だよなぁ」






私は不意に後ろから名前を呼ばれ、振り返った。






「やっぱり望月みちるだ。すぐわかったよ」






私を見つけて嬉しそうに笑っているその人は、中学時代の同級生だった。






「こ、紺野くん・・・!?わぁ、久し振りね。元気ぃ?」






私は、この懐しい顔に思わず駆け寄った。






「何やってんだよ、買い物か~」






紺野くんは、私の抱えている包みを見て言った。






「うん、主人に頼まれちゃって・・・」






私は懐かしさの反面、少し照れくさくもあり、下を向いた。






「主人・・・って、結婚したのか?そうだよな、俺達もう28歳だもんな。もうガキの一人や二人居てもおかしくないか」






紺野くんはそう言って、昔とちっとも変わらない顔で笑った。






「紺野くんは~?」



「俺か~俺はまだまだ。仕事が忙がしくってね」






「そう。お仕事何してるの~?」



「うーん、そうだな。映像関係・・・ってとこかな」






詳しく説明していたら、もっと時間がかかるのだろう。



彼は大まかな返答をした。






「ヘー、凄いじゃない」






私は口元で小さく拍手の真似事をした。






「それ程でもないさ。もうちょっと喋りたいんだけど、今日は生憎忙いんだ。もし良かったら後日電話をくれないか。飯でも食いながら昔話をしよう」






紺野くんはポケットから手帳とペンを取り出すと、走り書きしてメモを私の手に握らせた。






「俺の携帯の番号。いつでも掛けてきいよ、じやあな」






「・・・うん、お仕事頑張って・・・」






さよならの挨拶もままならぬまま、彼は走り出した。






「あっと、旦那に見つかるなよ」






紺野くんは一旦振り返ると、悪戯をしめし合わせた少年のような台詞を残し、再び背中を見せた。






「紺野くん・・・」






私は彼のくれたメモを胸に当て、深く息を吸った。



心臓の音が耳のすぐ隣りで鳴っているような気がした。






紺野くんとは中学時代の三年間、同じクラスで過ごした。



明るく活発でウィットに富んでいた彼、人気があり、女の子達に良くモテた。



あの時は気のないふりをしていたけれど、今になって思えば中学時代を振り返ると必ず彼の顔が脳裏に浮かんでいた。



私はしばらくその場で、彼の電話番号を数回反復して読むと、バックの中にそっと仕舞い込んだ。



大切なメモの入ったバックを肩に抱え直すと、私は混み合った歩道を巧みに歩いていった。






(すぐに電話を掛けたら、ふしだらな女に思われてしまうだろうか・・・)






数日の時の流れを胸の底が焦げつきそうな思いで待ち、私は逸る心を抑えて彼のメモの番号をプッシュした。



数回のコールの後、細かいノイズと共に彼の声が聞こえた。






「もしもし・・・」






「・・・あ、紺野くん~、みちるです」






かすかな緊張が私を取り巻く。






「ああ、望月か。電話サンキュー。旦那には見つかってないか~」






彼の屈詫のない声が耳に心地良い。






「いやね、紺野くん。主人の事は関係ないわ。私達同級生じゃない」






「昔は同級生でも、今は人妻だからなぁ。やっぱヤバいんじゃないの~」






携帯電話を握り締めて冗談めかす彼の姿が浮かぶ。






「そんな事ないわ。紺野くんは幼馴染で兄弟みたいなものだもの。ヤバい事なんてある訳ないわ」






私はわざと意地悪く彼をつっぱねた。






「それよりさ、会おうよ」



「いいわ、いつ~」






「今夜」



「今夜?」






「・・・ダメかな」



「・・・いいわ。主人には何とか言い訳するから」






「悪いな。なんか強引だな、俺」



「そんな事・・・」






「じゃあ6時に渋谷」



「わかったー」






電話を終えると私は急いで主人一人分の食事を作り、丹念に身支度を整えると約束の時間に間に合うよう出掛けた。



私の心にそこはかとないときめきを覚えた。






「望月、すまない、少し遅くなった・・・」






時計の針が六時を少し回った頃、彼は息を弾ずませてやって来た。






「お仕事と、忙がしそうね」



「まあね、これでも一応チーフなんだ」






「チーフ~?出世したのね」



「いや、まだまだこれからさ。行こう、近くにうまいレストランがあるんだ」






私は彼の横を肩を並べて歩いた。



それは中学時代、幾度となく夢に描いた光景だった。



こうして紺野くんと連れ添って歩き、楽しいお喋りをしながら食事をする。



卒業して、いつしか薄れかけていた物語が、十数年の時を経てにわかに香り立ち色付き始めていた。



だけど彼はもう15歳のやんちゃな少年ではなく、大人の男に変身していた。






フレンチレストランの純白のクロスの掛かったテーブルに向い合わせに座り、フレンチのコースと年代物のワインをチョイスする。



時が彼を、一体どんな経緯でここまで成長させてきたのか。



私の知らない彼の時間が、わずかな嫉妬さえも覚えさせた。






「望月、ワインはいける口~?」






「ええ、少しなら」






私はソムリエが注ぐ、淡いベルドット色をした液体を眺めながら頷いた。






「13年ぶりの再会を祝して・・・」






「乾杯」






薄氷のようなグラスが細く高い音を立てて触れ合った。



13年の間止まっていた時計が、今、再び動き始めた。






「・・・紺野くん、私、ちょっと飲みすぎたかしら・・・」






食事を終え、店を出て歩き出した途端、一気にお酒がまわったのか、私は足元がおぼつかなくなり、すっかり紺野くんにしなだれかかっていた。



久し振りにお酒を飲んだせいか、それとも緊張のせいか、アルコールのまわりは私の予想以上に早かった。






「大丈夫か、望月。ちゃんと家に帰れるか~」






彼は私の腰に手を回し、ふらつく体を支えていてくれた。






「へ、平気よ。なんとか帰れそう・・・」






私は目の前でぐるぐる回転する地面を一歩一歩踏みしめながら辿った。



踏みしめているはずの地面が、気が付くといつの間にか自分の頭の上にあった。






(どうしてこんな所に私は頭を付けているのかしら・・・)






そのまま私は、コンクリートに頭を付けたまま、何も考える間もなく眠りに揺れ落ちていった。






(・・・顔が、冷たいわ・・・)






私は顔を水に浸して、ゆらゆらと夢を見ていた。



・・・水が飲みたい・・・。



目の前に水がたくさんあるのに、私はその水を口にする事ができず、もどかしがっていた。



・・・ホントにここは水の中かしら?



私はその中で、思い切って目を開けてみる事にした。



すると中学時代に片思いをしていた紺野くんの顔が、水中で揺れながらぼんやりと浮かび上がった。






「望月・・・」






紺野くんはヤケにリアルに私の名前を呼んだ。






「わぁ・・・紺野くんだぁ・・・」






私は嬉しくなり、彼に向かって両手を伸ばした。






「望月、何ヘラヘラしてんだ。心配したぞ、大丈夫か?」






紺野くんは、窘めるような口調で私の額や首筋に冷たいタオルを宛てがっていた。






「・・・あれ~私・・・」






「やっと正気になったか。酔っぱらって店を出てすぐに倒れたんだぞ。覚えてないだろ?」






そう言いながら彼は、冷蔵庫から冷えた缶ジュースを取り出し、私に手渡した。






「ありがと・・・」






私はプルトップを押し上げると、喉の乾きにまかせて一気にあおった。



冷たい液体が乾燥した砂地を走り抜けるように私の喉はたちまち潤った。






「・・・ねぇ、紺野くん。もしかしてここって・・・」






落ち着きを取り戻した私は、改めて辺りを見回した。



安っぽい花柄の壁紙に、狭い部屋に不釣り合いな大画面のテレビ。



飾り物のようなカウチ。



そして自分が腰掛けているのは、この部屋を一番占領している大きなベッドだった。






「ラブホテルだよ。仕方ないだろ、望月が酔い潰れちゃったんだから。安心しろよ、何もしていない」






彼は、口調の割には怒っている様子でもなかった。



ただ、同級生の失態をクラスの片隅で見守っているような、そんな雰囲気だった。






「・・・ごめんね、紺野くん。私、はしゃぎすぎたかな」






私は缶ジュースをチビチビ飲みながら反省した。






「いいさ、久し振りに望月に会えて俺も楽しかった。これも次に会った時には笑い話に変わるよ。さぁ、それ飲んだらここを出るぞ。望月には旦那がいる身だからな。マズいだろ?」






彼は座っていたベッドから立ち上がり、ジャケットを羽織った。






「ま、待って、紺野くん」






私は彼の背後から両腕を回し、しっかりと彼の体を抱き締めていた。



この部屋を出たら、もう二度と彼には会えなくなってしまうような、そんな人恋しくさせる作用があのワインにはあったのだろうか。






「お願い、もうちょっとだけこうしていて。同級会とか、ちっとも来ない紺野くんにせっかく会えたんだもん、もっと紺野くんと一緒に居たいの。だって私、中学の三年間、ずっと紺野くんの事、好きだったのよ・・・」






まだ頭はボヤけているのに、思春期の頃から心に認めていた台詞が水のようにスラスラと口をついて出た。






「・・・望月」






彼が躊躇っているのが、彼の背中を通して伝わってくる。



私の心臓のこの音も、背中で感じ取っている事だろう。



部屋の中の静けさが、かえって耳にうるさかったかった。






「・・・望月、俺・・・」






紺野くんは私の手を振り解くと、私を抱き締めるようにしてベッドに沈めた。



私はそのまま彼に身を預けるような気持ちで目を閉じた。



彼の荒い息遣いが私の体を熱くする。



半分開いた唇が、彼の生温かい唇で隙間なく塞がれた。



ぬめった太い舌が私の舌を探り当て掻き回す。



私はそれに応えるように彼の舌を欲しがり、愛おしんだ。



私を抱いていた彼の手が私のウエストを弄り、ラインを確かめるようにしてせり上がる。



今まで決して触れる事などないと思っていた彼の指が、こんもりと膨らんだ私の胸を捕らえた。






「あっ・・・」






洋服越しの愛撫でさえも、彼の手の温もりを感じ、乳首が突き立った。



彼は私の胸の膨らみを掌で感じながら唇を首筋に這わし、優しくついばむようにして次第に胸元へと下っていった。



彼の手がワンピースの前ボタンにかかり、吐息で上下する私の胸を少しずつ露わにしていった。



そしてブラジャーを押しのけ、こぼれ出た乳首に吸い寄せられるように口付けた。






「ああっ・・・紺野くん」






ビリッとした刺激が私の背筋を走り、思わず彼の名前を呼んだ。



すると彼の動きは次第に波が引くように止まった。






「・・・ごめん、望月」






彼は私の乱れた胸元を直すと、頭をうなだれたまま、ノロノロと離れた。






「・・・紺野くん」






私は肌蹴た胸元を押さえながら体を起こした。






「ごめんな。望月はもう人妻なんだよな。もう名前だって望月なんかじゃないんよな。ごめんな、俺、望月に不倫させちまうところだった・・・」






彼は下を向いたまま、垂れた前髪をくしゃりと掴んだ。






「ち、違うわ。紺野くんが悪いんじゃないわ。酔っ払って紺野くんに抱き付いた私がいけないのよ」






私は彼の気落ちした肩に手をかけた。






「望月、今日はもう帰ろう。こんな所にいたら、また望月をどうにかしちゃいそうだよ」






彼は私の手を払うように立ち上がると、黙ったまま私の手を繋いでホテルを出た。



駅までの道を歩く間、彼は終始無言だった。



私は彼の横顔から何か読み取ろうとしたが、結局わからないまま、さよならの時が来てしまった。






「もう、酔いは覚めたか~」






「平気よ。ごめんなさい心配かけて。それじゃぁ・・・」






私はそのまま改札口へ向かおうとした。






「望月」






彼の声が背中から聞こえ、私はゆっくり振り向いた。






「望月、お前今の名前、なんて言うんだ?ほら、旦那の名字だよ」






「さっき、訊けなかったからさ・・・」と彼は口ごもった。






「佐倉っていうのよ。佐倉みちる」






「・・・佐倉か」






紺野くんは私の新しい名前を反復した。



そして今度は私をちゃんと真正面から見すえて言った。






「じゃぁな、望月。今度会う時は、ちゃんと佐倉みちるの顔して来るんだぞ」






彼は私に手を振ると、再び振り返ることなく去って行った。



ただ私だけは望月みちるのまま、雑踏に消えてゆく彼の後ろ姿を目で追いかけていた。






<続く>