雨が降ってきた。
車の屋根を叩く雨音は不規則なリズムを刻んでいる。
俺は手に持っている機械のツマミを夢中で操作していた。
エアコンを切った車内は夜になっても蒸し暑く俺は全身汗でびっしょりになり、額からは汗が滴り落ちてくる。
この機械は1年くらい前大学の先輩から貰ったものだ。
最初は何の機械か判らなかった。
「先輩これなんですか?」
俺がそのトランシーバーみたなモノを先輩に見せると、
「ああ、それ電波を傍受する機械だよ」
なんでもディスカウントショップで1万円くらいで買ったらしい。
警察無線や昔のアナログの携帯電話やコードレスの電話の電波を傍受できるらしい。
「電池が切れたまま放ったらかしにしてたから充電すりゃまだ使えるぜ、欲しかったらやるよ」
面白そうだなって思って貰って帰った。
家に帰ってからしばらく充電してスイッチを入れるとたしかに使えた。
でも、驚いたのはその性能だった。
コードレスホンというボタンを押してツマミみたいなのを調節すると近所のコードレスホンからの会話がバンバン聴こえてくる。
「こりゃ凄げえ」と思った。
まさかここまで鮮明に聞こえるとは思ってもみなかった。
最初は面白くて近所の電話を盗み聴きしていたが、たいして面白い内容の会話も無くやがて飽きて部屋の隅に転がったままになっていた。
その機械を久しぶりに引っ張り出し、親父の車を借り、電池が切れていたので車の中でも使えるようシガーライターから電源を取るコードを近所のカー用品の店に寄って買ってきた。
そこまでしてこの機械を使いたかった理由は、彼女からかかってきた一本の電話にある。
今晩、俺と彼女は19時に待ち合わせて一緒に食事に行くはずだった。
その時間を20時に変更してほしいと彼女から携帯に電話があった。
「どうしたの?」と聞く俺に、彼女は「いえ、ちょっと友達から電話があるから・・・」と言った。
「友達って?」
「あ、あの大学の女友達で・・・なんか相談に乗ってほしいとか・・・」
「携帯で話せば良いだろ」
「いや、なんか長くなりそうだから・・・自宅に電話を・・・」
彼女の口調は歯切れが悪かった。
俺は何かおかしいと思ったが、平静を装い「そうか、じゃー終わったら携帯に電話して」と電話を切った。
俺は直感的に彼女は何かを隠していると思った。
電話があるというのは本当だろう。
じゃ誰からかかってくるのか?
それに、もし本当に女友達だったとしても、彼女がその友達とどんな会話をするのか大いに興味があった。
俺はその時部屋の隅に転がっているこの機械のことを思い出した。
それは悪魔の誘惑だった。
「人間、知らない方が良いこともあるんだぜ」
先輩が俺にその機械をくれるときに言った言葉を思い出した。
その時はあまり気にとめなかったが、今になってその言葉が重みをおびてきた。
彼女の家はFAX付きの電話機で、彼女の部屋にコードレスの子機があるのは知っている。
(ちょうどおあつらえむきだ、どうする?)
俺はちょっと悩んだが結論はすぐに出た。
それから俺は部屋に行って機械を取ってきて、カー用品の店に寄り、彼女の自宅から百メートルほど離れた空き地の前に車を停めた。
雨音はだんだん激しくなってきた。
時計の針は19時ちょうどを指している。
(もう電話があるはずだ)
俺は彼女の電話の周波数を探して何度もせわしなくツマミを回していた。
しかし、聞こえてくるのは関係の無いこの近所に住む住人の会話ばかりだった。
それから5分ほどしてあきらかに他の会話と違う聞き慣れた声が聞こえてきた。
(彼女だ)
俺はその周波数を固定し、じっとその会話を聴いた。
どうやら彼女と喋っているのは男らしい。
俺は「やっぱり」と思うと同時に激しい嫉妬で胸を焼かれた。
(俺との約束を遅らせてまで、この男と電話がしたかったのか)
しかし二人の会話はそんな生やさしいものでは無かった。
最初は何の話か判らなかった。
聴いているうちにだんだんレポートの提出について話していることが判ってきた。
どうやらその作成を彼女に手伝ってほしいという頼みだった。
相手の男の名前はK次で彼女と同じ大学だということも判ってきた。
彼女は「K次」と名前を呼び捨てにし、K次は彼女のことを「R恵」と呼び捨てにする。
それで二人が普通の友達関係では無いと確信した。
しかし疑問に思ったのは彼女のすごく冷淡な口調だった。
俺との普段の会話ではこんなに低い怒ったような口調では絶対に喋らない。
K次は命令口調で喋っていて、彼女はそれにムカつきながら喋っている。
そんな感じだった。
どんな関係なんだこの二人は?
俺は悩みながらダラダラとした会話を聴いていたが、突然話の内容が変わった。
まずK次が言った。
K次「なあ、明日夕方から会おうよ」
続いて彼女の返事
R恵「いやよ、明日は用事があるし」
K次「おまえ今日も用事があるって言ってたじゃねーか」
R恵「今日も明日も用事があるのよ」
K次「なんの用事だよ」
R恵「なにって・・・家の用事よ・・・」
K次「ウソだろ、なあ久しぶりに会いたいんだよ」
R恵「大学でしょっちゅう会ってるでしょ」
K次「二人っきりで会いたいんだよ」
R恵「どうせエッチしたいだけでしょ、この前大学のトイレでやってあげたばっかだし」
K次「フェラだけだろ、それにやってあげたってどういうことだよ」
R恵「K次が無理矢理やらせたんじゃない」
K次「嬉しそうに飲んだくせに」
R恵「ウソばっかり、だれがあんなもの嬉しいのよ」
俺は呆然としてた。
「大学のトイレ」
「エッチしたいだけ」
「フェラだけ」
「飲んだ」
さっきの会話が頭の中をぐるぐる回っている。
K次「おまえ浮気してないか?」
R恵「なによ、してないわよ」
K次「怪しいんだよ、もししてたらブッ★すぞ」
R恵「してないってば」
K次「どうだかな、とにかく明日な」
R恵「だめだって言ってるのに」
K次「明日会えなかったら、またおまえの家まで行くぞ」
R恵「・・・わかったわ」
K次「じゃあ、夕方6時に◯◯駅の前のいつものところでな」
R恵「もう切るわよ」
ガチャという電話を切る音の後にザーというノイズだけが残り、俺は呆然としたまま手の中の機械を見つめていた。
さっきの会話は本当に彼女なのか、誰か別の人の会話ではないのか。
頭が混乱しているのか、事実を受け止めるのが怖いのか。
俺は「彼女じゃない、彼女じゃない」と必★に否定しょうとしたが、どう考えても彼女に間違いなかった。
その時携帯のバイブが低い音で唸りだした。
(彼女だ、どうする?)
俺はその携帯からさっきまで聴いていた会話の人間の声がすることに激しく抵抗を感じた。
しかし出ないわけにはいかない。
俺 「もしもし」
R恵「おまたせー、行こうか?」
口調はさっきとうって変わって明るいが、声はさっきの声と一緒だ。
俺はとっさに嘘を言った。
俺 「いや、ちょっと体調が悪くなって・・・」
R恵「えー、どうしたの?」
俺 「なんだか判らないけど頭がすごく痛くて・・・」
R恵「えー、残念だなー、すごく楽しみにしてたのに」
俺 「ごめんな」
R恵「許さない、って嘘、しょうがないね頭が痛いんじゃ」
俺 「本当にごめん、明日までに治すから、だから明日・・・」
R恵「ごめん明日はダメなの、今日相談を受けた友達と明日飲みに行って、じっくり話を聞くことになったの」
俺 「そうか・・・じゃ、また今度」
R恵「うん、お大事に」
俺は電話を切ると急いで車のエンジンをかけた。
一刻も早くこの場から逃げ出したかった。
俺は猛スピードで車を走らせ、帰るまでの道中頭の中を整理した。
しかし、考えれば考えるほど頭の中は混乱し、気が付くと家の前まで帰っていた。
車を駐車スペースに停め、自分の部屋に入り、寝転がって長いあいだ天井を眺めていた。
さっきの機械から聞こえてきた会話が頭の中で何度も繰り返されていた。
いつしか涙が溢れ出し、頬を伝っていった。
翌日、俺は◯◯駅の改札の前に立っていた。
この駅まで車でやってきて、車は駅前の駐車場に入れてある。
もし、あのK次とかいう男が車でやってきたらという心配があったので念のために車を借りてここまで乗ってきた。
そして俺は、帽子にサングラスといういでだちで改札の前の柱の陰に隠れ。
顔だけだして改札から出てくる人をひとりひとり観察してた。
いつもの待ち合わせの場所がどこかはわからないが、ここに立っていれば絶対に彼女は現れるはずだ。
俺は時計を見た。
午後5時30分を過ぎたところだ。
約束の時間までには後30分もある。
この駅に改札はもうひとつあるが、向こうの改札から出た場所はガランとした淋しいところだし、こっちの改札の前にはカップルたちの待ち合わせのメッカの噴水がある。
それに何よりもここから歩いてすぐのところにラブホテル街がある。
無性に煙草が吸いたくなった。
でもこの柱には灰皿が設置されていない。
時間が近づくにつれ心臓の鼓動が高くなってゆき、胃から苦いモノがこみあげてくるような気がしてムカムカした。
向こうの灰皿があるところまで行くと彼女を見失ってしまう。
俺は我慢することにし、じっと彼女を待っていた。
やがて改札の奥の階段から彼女が下りてくるのが見えた。
俺はその瞬間完全に柱に身を隠し、彼女の後ろ姿だけを探した。
彼女は噴水の方に歩いて行く。
バレないようにゆっくりと後をつける。
俺はてっきり彼女は噴水の前で立ち止まると思っていたが、彼女は噴水を通り過ぎ、少し離れた喫茶店に入っていった。
ここがいつもの場所か・・・。
俺はどうすることもできずに噴水の前のベンチに腰掛けた。
そこの場所から喫茶店はよく見える。
彼女は窓際からひとつ奥の席に座った。
しかし、夕日がガラスに反射してその表情までは見えない。
なんとなく彼女が座っているのがわかる程度だ。
俺は煙草を取り出し火を付け煙りを深く吸い込んだ。
さっきまでの吐き気が少しおさまり、俺は夕日を眺めながらこの後どうするか考えた。
昨日の電話の会話からすると、二人は喫茶店を出てからラブホテル街に向かうだろう。
俺は二人の後をつけていき、二人がラブホテルに入るのを目撃するだろう。
それでどうするんだ?
二人が事を終えてまたそこから出てくるのをじっと待つのか?
バカか俺は?そんなこと許して良いのか?
でも、今ここでそんな行為を止めることはできるのか?
相手の男を殴るのか?ヤツも被害者じゃないのか?
煙草一本を吸い終わるまでに様々な考えが浮かんでは消えていった。
そして俺は決心して携帯を取りだし彼女の携帯に電話をかけた。
短い呼び出し音の後、彼女が出た。
俺 「もしもし」
窓から彼女が携帯を耳にあてているのがなんとなくわかった。
R恵「あれ、どうしたの?」
俺 「いや、ちょっとまずいことになっちゃって」
R恵「え、何?」
俺 「いや、昨日の頭痛のことでさ、後で詳しく話すから電話繋がるようにしておいてくれる」
R恵「なんなの?」
俺 「今、ちょっと話せないんだ、じゃー、後でね」
俺は彼女からの返事を待たずに電話を切って、ふーっとため息をついた。
そのとき駅の方から歩いてきて喫茶店に向かう男がいた。
後ろ姿しか確認できなかったが、短髪でガッシリした体格の男だ。
男は喫茶店の中に消え、じっと喫茶店の窓を凝視していると男は彼女の前に座った。
あいつがK次か・・・。
あいつもまさか彼女に別の男がいるなんて知らないんだろ。
それとも電話では彼女を疑っているようなことを言ってたから薄々俺の存在に気が付いているのか。
しかし、俺と同じ境遇でありながら、なぜかヤツに同情はおきなかった。
それは昨日の彼女とヤツとの電話での会話で、彼女はあまりヤツには好意を持ってないように思えたからだ。
なにか無理に付き合っている感じだ、ヤツに何か脅かされているのか、それとも・・・。
俺はとめどもなく沸き上がる想像にふけっていた。
やがて窓から二人が立ち上がるのが見えた。
俺もベンチから立ち上がり噴水の後ろへ回った。
ここに立っていれば向こうからはハッキリ見えないし、俺は二人が駅側かラブホテル街の方向かどっちに行くかだけを確認できれば良かった。
案の定二人はラブホテル街の方に向かい始めた。
俺はゆっくりと距離を開けて二人を尾行した。
ここらへんは駅前なので人も多いから尾行も楽だ、しかしラブホテル街に入るとそうもいかないだろう。
俺はできるだけ二人を見失いなわないように、なおかつ尾行もバレないように苦労しながついていった。
やがて二人はラブホテル街に入り、俺もますます距離をとって尾行した。
しかし二人は最初の角を曲がった。
ヤバイ!
俺は慌ててダッシュする。
すれ違ったカップルが必★の形相で走る俺を奇異な目で見ている。
二人が曲がった角までたどりつき、顔だけを出してそーっと様子を見る。
いない!
この両脇に並んでいるどこかのホテルに入ったのだ。
俺はさっき考えた計画を実行に移すことにした。
ポケットから携帯を取りだし彼女の番号をリダイアルする。
呼び出し音が1回、2回、3回、頼む出てくれ!
俺は祈るような気持ちで呼び出し音を聞いていた。
そのとき左側の2番目のホテルの入り口から女が飛び出してきた。
そしてそれと同時に携帯が繋がった。
俺はまた角に身を隠した。
R恵「もしもし、大丈夫なの?」
俺 「R恵、もし君がもう一度その建物の中に入ったら俺たちの関係は終わるよ」
R恵「え?」
俺 「今来た道を走って戻れ、できなかったらお別れだ」
電話を切った。
彼女が戻らなければ終わりだ。
戻ってくれば・・・考えてなかった。
足音がする。
彼女が駆けて来る音だ。
俺は帽子を取りズボンの後ろのポケットにねじこみ、サングラスをはずしてポケットに入れた。
彼女は角を曲がった瞬間、俺を見て驚いていた。
「どうして・・・」
俺はポケットから車の鍵を出し、彼女に渡した。
「駅前の立体駐車場の2階に俺の車がある、そこで待っててくれ」
彼女は泣きそうな顔をしながら「でも・・・」と言った。
「いいから!早く!」
彼女は俺に背を向け小走りに駅の方へ向かった。
俺は今度は角から全身をさらけ出し、彼女が出てきたホテルの入り口をじっと見ていた。
やがて男が飛び出してきて、周りをキョロキョロ見渡している。
K次だ、ヤツは何かを叫ぶと俺の立っているところまで突進してきた。
慌てて角を曲がろうとするK次の背中に俺は声をかけた。
「彼女は戻ってこないよ」
ヤツが急ブレーキをかけたように立ち止まる。
そして振り向いたヤツは鬼のような形相をして俺に言った。
「てめえは何だ?」
「さあね、何だろ」
「ふざけるな!なんでてめえR恵のこと知ってるんだ」
ヤツは俺の目の前まで近づいていた。
「なんでだろうね」と俺がニコっと笑った瞬間、俺の目の前は真っ暗になった。
俺は地面に尻餅をついていた。
口の中に苦い味が広がってくる。
俺はペッと唾を吐きその唾が真っ赤なのを確認した。
殴られた顔がヒリヒリする。
えらく短気なヤツだなーと思ったその瞬間、今度は俺の顔面に蹴りが飛んできた。
俺は間一髪で横に転がってその蹴りをよけると、素早く立ち上がってなんとか戦闘態勢を整えた。
全身の血が逆流して頭に登ってきているのがわかる。