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「キノコの子」と呼ばれた俺の性の自叙伝~小学時代~









 俺は母子家庭だった。父親はどこかの中小企業の社長だったそうだ。つまり、母親は妾だ。バブル崩壊後に音信不通になったらしい。

 俺が高校2年の6月に母は43歳で亡くなった。それまでは小さなスナックをやっていたが、それだけでは性活は苦しく、常連客に身体を売っていた。スナックはメゾネット形式の部屋が棟割のようになった建物で、2階に6畳の和室があった。そこで客と寝ていた。

 僕の女性相手の初体験は10歳、小学4年生の時だった。相手はスナックの常連客の知り合いの30代半ばの女性だった。あえて女性相手と言ったのは、その少し前に男相手に性的な悪戯をされていたからだ。

 俺が小学生になった頃バブルが弾けた。当時30歳を過ぎた母親の体は商品価値が下がりつつあった。そして、俺が小4になってすぐ、母から、

「おじさんのいうとおりにしなさい。」

と言われ、40歳くらいのおじさんに悪戯された。おじさんにチ○ポを弄られると射精する能力はなかったが立った。ランドセルを背負ったまま下半身だけ裸にされ立たされたチ○ポを晒した写真を撮られた。公園でブランコに乗ったり、自転車に乗ったり、全てチ○ポを立たせたままの姿を撮られた。

 おじさんと一緒に風呂に入り、包茎チ○ポの皮を剥かれた。痛くて泣いた。おじさんは「小さいうちに剥いたほうが良いんだ。」と言って、恥垢を綺麗に洗い、

「お風呂で毎日剥いて洗いなさい。」

と言った。俺は言い付けを守って毎日剥いて洗ったので早い段階から包茎ではなかった。風呂から上がると、おじさんにチ○ポを舐められて気持ちが良くなった。まだSEXなど知らない俺は、ただ恥ずかしいのと気持ちが良いの区別さえも出来なかった。その後、おじさんのチ○ポを舐めさせられ、顔に精液をかけられてびっくりした。




 おじさんの悪戯はエスカレートし、下半身だけ裸の俺をM字開脚で椅子に拘束してチンポを紐で縛り、更にお尻の穴に魚肉ソーセージを突っ込んで写真を撮られた。傍らにいつもランドセルが写るようにしてあった。俺は、身動きを禁じられながらも快楽で女の子みたいな声を漏らしていたような記憶がある。

 小4の冬、そのおじさんが母親と同年代の30代半ばの女性を連れてきた。俺は、その女性に裸にされ、チ○ポを舐められ立たされた。そして、仰向けになった俺に跨りチ○ポを自分の膣に挿入し腰を振り始めた。俺はびっくりしたと同時に気持ちよくてされるがままだった。俺は、おじさんに教えられるまま、その女性に正常位や後背位で挿入して腰を振った。俺は、射精する能力はまだ無かったので、いつまでも生SEXをさせられた。これが俺の初体験だった。もちろん写真を撮られた。




 そのうち俺は、20代後半から40代半ばくらいの女性数人の相手をさせられていた。いつの間にか、母が身体を売る頻度は少なくなり、俺がスナックの2階で客を取るようになっていた。俺は「きのこの子」と呼ばれた。小学生の俺とのSEXは秘密裏に会員制で行われ、スナック開店前に俺はスナックの2階で客を待った。

 小5には、既に5人の女性と関係していた。女性は気持ち良いと、

「あはん、うふん」

と喘ぐものだと知った。

「この子包茎じゃないのね。」

とか、

「子供でこの大きさってすごいわね。」

とかいわれた。そういえば、あの悪戯オジサンと俺のチ○ポは色は違ったが大きさはそう変わらなかった。そして、女性の膣内のどこを刺激すれば悦ぶかを覚え、その位置が人により異なるが大抵上側にあることも経験で学習した。

 小6になるとSEXについて学習した。自分のしていることが生殖行為だと知った。でも、射精はまだ出来なかった。俺の女性経験は10人を超えた。引っ越した人や転勤した人もいるので、会員としては8人だが、小6の俺は彼女たちを逝かせることが出来ていた。皆、女のロリコンだ。彼女達の多くはSEXするだけでなく、俺のチ○ポを玩んで喜んでいる。

「ボクちゃんのチ○チ○、可愛いのねー」

と弄り、立ってくると

「アラアラ、生意気にでかいのねー」

と言ってフェラする。俺の鼻息が荒くなり腰が動くと、

「可哀相にねぇ。逝きたくてもまだ出ないのよねぇ。」

と言って仰向けになり、股を開く。俺は、チ○ポを挿入してとにかく早く逝かせることに集中した。気持ちは良かったが射精の快感はまだ味わっていなかったので、早く終わらせて遊びたいし、テレビも見たかった。何せまだ小6だった。

 俺は小学生で10人以上の女性とSEXし、女性を逝かせることが出来たが、それは機械的なものでしかなかった。












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