朝礼が終わって、教室へと戻ったときに、「残念ながら、男のほうらしいぜ」後ろの席の佐藤が、そう教えた。
「・・・え?」
「実習生。うちのクラスに来るのは、男のほうらしい」
「ああ。そうなんだ」
つまり、今しがたの朝礼で紹介された二人の教育実習生のうち、男のほうがこの二年A組付きになるという情報だった。
「ツイてねえよな。せっかく、女子大生とお近づきになれるチャンスだったのにさ」
「うーん・・・女子大生つってもなあ」
いかにも無念そうな言葉に、修一は同調する気になれない。
女性のほう、佐藤の拘る“女子大生”は正直さほど“お近づき”になりたいタイプでもなかった。
「それでも、ニヤけた優男よりは何倍もマシだ」
「・・・まあ、そうかもな」
譲らない佐藤に適当に合わせながら、周囲をうかがってみる。
その情報はすでに広まっているようで、教室の雰囲気は少し違っている。
なるほど、女子生徒のほうが盛り上がっているみたいだ。
やれやれと修一が軽いため息をついた時、チャイムが鳴った。
「藤井恭介です。よろしく」
落ち着いていた。颯爽とした感じ。
確かに“優男”という形容が似合う、いま風の二枚目。
髪はサラリと流し、スーツの着こなしも洒脱で、およそ“教師のタマゴ”といった初々しさは感じられない。
自然、女子の間には熱っぽいひそひそ声が交わされ、逆に男子には本能的(?)な反発の空気が広がる。
「ケッ」
佐藤が吐き捨てる声に苦笑しながら、“これなら地味な女実習生のほうがマシだったか”と修一も思った。
複雑な注視を浴びる若い見習い教師は、そんな空気は意にも止めない様子で出席をとりはじめた。
ひとりひとり呼び上げては、顔を確認していく。
声も淀みなく、冗談めかした媚態をこめた返事にも不機嫌な応答にも、動じることなく飄然と。
(もう少し不慣れなところを見せたほうが、印象がいいのにな)
修一は内心に呟いた。
そんな思考を浮かべてしまうのは、家庭環境からのクセのようなものだった。
「加橋、修一」
「はい」
ごく普通に答えた修一と、藤井の目がはじめて合う。
「・・・・・・」
「・・・?」
他の生徒より長くマジマジと見つめられた気がしたが、はっきり不自然な間合いになる前に、藤井は出席簿に目を戻した。
(気のせい・・・だよな)
無論、今日はじめて顔をあわせた教生に目をつけられる理由など思い当たらないから、修一は軽く流した。
それが気のせいではなくて、しかるべき理由もあったことを知ったのは、四時限目の授業が終わったとき。
この時間、現国の担当教師とともに現れた藤井は、授業の後半を引き継いで教壇に立った。
やはり、そつのない授業ぶりだった。
感心する半面“どこまでも可愛げはないなあ”と呆れていた修一は、廊下に出たところで藤井に声をかけられた。
「君は、加橋先生の息子さんなんだって?」
「ああ・・・はい」
修一が頷くと、藤井はやけに嬉しそうに、
「僕は、加橋先生の教え子なんだよ」
「ああ・・・」“そういうことか”と修一は納得した。
藤井もこの高校のOBだというのだから、もっと早く思いあたってもいい可能性だったが。
・・・うざったいなと、感じる。
「先生にも久しぶりにお会いしたけど。全然変わってなくて嬉しかったな。僕も加橋先生みたいな教師になりたくて、教職をとったわけだからね」
「そうなんですか」
気のない相槌をうちながら、“そんなこと俺に言われてもなあ”とか。
だいたいルール違反だと思える。
無論、修一がこの学校に勤める女教師・加橋奈津子の息子であることは周知の事実だ。
少なくとも、教職員には知らないものはいない。
しかし、平素の生活の中ではそのことに触れないのが、暗黙の了解事であるはずだった。
まあ、藤井はまだ教師のタマゴに過ぎないのだから、大目に見るべきだろうが。
母が、このように教え子から慕われているということには、悪い気はしなかったし。
「ま、これもなにかの縁だから。短い間だけど、よろしく頼むよ」
「こちらこそ」
ポンと肩を叩かれるのも、馴れなれしさが過ぎる気がしたが。
とにかくも、ひと段落ついた会話に安堵して。
軽い足取りで立ち去る藤井を見送って、「・・・ま、たったの二週間だからな」あまり気にしないでおこうと、修一は思った。
「実習の藤井先生って、母さんの教え子だったんだって?」
それでも、夕食の席での話題には乗せてみた。
「ええ」
箸を止めて、奈津子は答えた。
銀縁眼鏡の奥の知的な瞳が修一をとらえる。
「藤井くんから聞いたの?」
「うん」
「・・・他に・・・なにか言ってた?」
「うん?ああ、母さんに憧れて教師を目指したとか」
フッと奈津子は微苦笑して、
「点数かせぎのつもりかしらね。昔から、口の上手な子だったから・・・」
「でも、そういうのって嬉しいんじゃないの?」
「まあ、ね」
「・・・藤井先生って、どんな生徒だった?」
別に興味もないが、話の流れとして訊いてみた。
「優秀だったわよ。真面目だし」
「ふーん」
優秀というのはわかるが。
真面目ってのはどうだろう?という思いから、「女子はさ、浮かれてるヤツがけっこういるね。その分、男子には受けが悪いみたい」そんなことを伝えてみた。
奈津子は少しだけ困ったものだという表情を作って、
「仕方ないわね。年が近いから、多少はそういうことも」
「そういうもんかな」
「毎年のことよ。実習生が来るたびに」
慣れっこだというふうに、ベテラン教師である奈津子は言って。
どうということもないままに、その会話は終わった。
つまりは、母とっては藤井恭介も、数多い教え子のうちのひとりに過ぎないのだと。
そう、修一は理解し納得した。
五日が過ぎた。
藤井センセイはしごく好調に実習を消化しているように見える。
「つーか、絶好調じゃん?」
気にいらねえと、佐藤が大多数の男子生徒の気持ちを代弁する。
鞄に教科書を移していた修一は、またかと思いつつ、佐藤が睨みつけているほうを見やった。
放課のHR直後の教室。
教壇のあたりで藤井が数名の女子に囲まれている。
すでに見慣れた光景だ。
「加橋さあ、奈津子先生に注進して、ひとつガツンと言ってもらってくれよ」
「注進って・・・なんて言うんだよ?」
藤井が加橋奈津子教諭の教え子であるということは、すでにかなり広まっている。
藤井自身が折にふれては口にしているようだ。
「生徒とうちとけるのは、悪いことじゃないだろ」
「甘い、甘いぞ。なにか問題が起こってからでは遅いんだよ」
PTAみたいなことを言う佐藤だが、それがやっかみに過ぎないことは明白だ。
取り合おうとしない修一に、佐藤が口調を変えて、
「そりゃあ、クラスのバカ女がいくら藤井に靡いても、加橋にゃどうでもいいだろうけどさ。しかし、まるっきり他人事でもないんよ?」
「はあ?」
「アイツ、しのぶ先生にもコナかけてるらしいよ」
「・・・・・・」
「ホラ、顔色が変わった。な、捨ておけねえだろ?」
「・・・いや、どこでそんな情報仕入れてくるのかと思ってさ」
でも、一瞬ドキリとしたのも事実。
いやな気分になったのも事実だったから、「桜井先生が・・・相手にするかな」つい、修一はそんな言葉をこぼしてしまった。
取り巻きを従えて、ようやく教室を出ていく藤井を、少しだけ細めた目で見送りながら。
「そう信じたいけどさ、オレも」
力をこめて佐藤は頷く。
とにかく藤井を男子生徒共通の敵だととらえているようだ。
・・・佐藤が女に縁がないのは、もとからのことだったはずだが。
「加橋、おまえ、今日も部活でしのぶ先生に会うだろ?釘をさしとけよ」
「今度はそっちかよ・・・」
呆れたように返しながら。
ちょっと考えてしまう修一。
確かに。桜井しのぶ教諭は修一の所属する美術部の顧問であるから、毎日のように顔を合わせる。
(けどなあ・・・)
どうすりゃいいやらと思案しながら部活に出た修一だったが。
「先生、聞きましたよう」
女子部員のひとりが、あっさりと解決してくれた。
「教生の藤井先生と、かなり親密らしいじゃないですか」
(寺田、ナイス)
その寺田という女子に、心の中で点を与える修一。
日頃は幽霊部員のくせに、ゴシップ目当てで出席したらしいことも許す。
「そんなんじゃないわよ」
他の部員のそばに立って、製作中の絵への助言を与えていた桜井先生は、苦笑を向けてそう言った。
あまり美術教師というイメージにはそぐわないような、淑やかな容姿と物腰の女教師だ。
長い艶やかな髪を大きくまとめて背に流している。
「えー、でも、お二人が睦まじく話してる現場は、何人もの生徒に目撃されているわけですが」
芸能リポーターよろしく追及する寺田。
どうやら彼女は藤井のシンパではないらしい。
しかし、桜井先生は余裕の笑みで受け流す。
「大学がね、私も東京だったでしょう?それで、住んでいたところも、いまの藤井先生の住まいと近くでね。そういう話題で、ちょっと盛り上がったの。それだけです」
動揺を見せない態度に、修一はひとまず安堵する。
しかし、なおも食い下がる寺田や、その尻馬にのりはじめる他の部員たちに対応する先生の表情は、満更でもないというようにも見えてしまって、チクリと胸を刺す。
さほど強くハッキリとした感情を桜井しのぶに向けているわけではないが。
好意と親近感を抱く女教師が、いきなりやってきた実習生と妙な関係になってしまうのは、面白いことではない。
(・・・結局、俺も佐藤たちと変わらないか)
などと、自嘲していると、
「・・・加橋」
不意に隣りから声を掛けられた。
妙におどろおどろしい声を。
ふり向けば、カンバスを並べていた三年の久保が暗い目でにらんでいた。
「なんすか、部長?」
聞き返しながら、あ、この波動は最近すっかり馴染みがある・・・とか思った。
この春、定年で引退した前任に代わって桜井先生が顧問となったときには、本当に嬉し泣きに泣いたという久保である。
美術部のマドンナへの思い入れは修一などよりずっと深いことはわかっていたから。
果たして、久保部長は思いつめた口調で切り出す。
「藤井ってのは、加橋先生の教え子だったんだってな?」
「あー、そうらしいすけどねえ」
ポリポリと頭をかいて。
修一は、聞かずともわかる久保の言葉の続きを遮って、「まあ、あと10日もすれば、いなくなるわけですから。心配することはないでしょう」力をこめて、そう言い切った。
(・・・しかし。母さんって、やっぱ、そういうイメージなんだな)
鶴の一声とか、若造なんぞ、ひと睨みで黙らせるとか。
そういう存在だと、みなが認識しているのだなあと、改めて確認した。
藤井らの実習期間が残り半分となった頃には、修一は心底うんざりしていた。
相変わらず闊達に過ぎる勤務ぶりの藤井に対して、加橋先生の影響力の行使を望む声を何度となく聞かされるはめになっていたからだ。
しかし、“女子生徒にモテすぎて男子のやっかみがうるさいから、なんとかしてくれ”などと母には言えない。
また、奈津子のほうからも、藤井の実習態度について、修一に尋ねるということはなかった。
かつての教え子だということを考えれば、やや冷淡な態度にも思えたが。
直接の監督係ではないという立場から、口出しを謹んでいるのだろうと修一は推測した。
母の性格からして、いかにもなことである。
そして、母の対応がそのようであれば、ますます修一からは、つまらぬ訴えなどしにくくなってしまう。
結局、修一は、周囲からの懇請へのお決まりの返答、“あと数日の辛抱だから”という言葉を自分にも言い聞かせて。
その日を真剣に待ちわびるようになっていたのだが。
皮肉舐めぐり合わせというのか。
放課後、部活へと向かう途中の廊下で、親しげに話しこむ藤井と桜井先生の姿に出くわしてしまう。
足を止めて、楽しそうに談笑する二人を、遠く修一は眺めた。
そのそばを通りぬけるのもためらわれたし、きびすを返して回り道をするのも馬鹿げている。
幸いにも、ほどなく二人は話を終えて。
桜井先生は美術室の方へと向かっていった。
「・・・やあ」
藤井が修一に気づいて、歩みよってくる。
「うん?どうしたのかな。そんなに睨みつけて」
「・・・」
睨んでいるつもりはないが、憮然たる顔になっていることは、修一も自覚する。
藤井が笑う。
どうしたと聞きながら、修一の内心など見通しているように、
「心配はいらないよ。別に、桜井先生に対して、妙な下心は持ってないから」
「別に、そんなことは・・・」
カッと頭に血を昇らせながら返した修一を、まあまあとなだめて、
「確かに、彼女、なかなか魅力的だとは思うけど。俺は、それほど趣味でもないな」
「・・・・・・」
修一は、思わず呆気にとられる。
急にくだけた藤井の口調と、倣岸すぎる言いぐさに。
「そう。好みというなら、奈津子先生のほうだな。俺は」
「はあっ!?」
素っ頓狂は声を張り上げてしまった。
(・・・な、なに言ってんだ?こいつ)
「憧れてたってのは、単に教師としてだけじゃないってことさ」
「・・・趣味、悪いんですね」
「どうして?奈津子先生は綺麗なひとじゃないか」
他意のない口調で藤井は言った。
それは・・・事実だ。
修一もひそかな自慢に思っている。
だが、何故だか感情を害されてしまって、
「・・・そんなこと言うの、藤井先生だけですよ」
つい反論してしまった。
「そうなの?うーん、確かに威厳があるからな、奈津子先生は。気安く話題にはしにくいかな」
「それ以前に、年が・・・」
藤井の見解に正しさを感じながら。
なおも修一は、そんな言葉を続けてしまう。
現実に高校生の子供を持つ母親であるのだから。
容姿のことなど、生徒たちの関心の埒外だろうと。
それは、修一と三才しか違わない藤井にしても同じことであろうと。
・・・やけにムキになって、藤井からの母への賞賛を否定したがっている自分に気づく。
(なにやってんだ?俺)
こんな妙な話題で、話したくもない相手と話しこんでしまって。
「まあ、ともかく」
修一のバツの悪さを知ってか知らずか、藤井は明るい声で、
「そういう憧れもあるぶん、奈津子先生には弱いんだな、僕は。だから、あまり悪い評判は先生の耳に入れないでくれよ?桜井先生のことだって、本当になんでもないんだからさ」
「・・・はあ。言いませんけどね」
頼むくらいなら、少しは慎めばいいじゃないかと思う。
・・・なにか、話をはぐらかされた気もした。
消化しきれないものが残ったような。
思いがけず会話の機会を持っても、修一の藤井への心象は良くはならなかった。
逆に、その存在への疎ましさを強めただけだった。
翌日。
「ニュース!じつに愉快きわまるお知らせ!」
昼休みが終わる頃教室に戻ってきた佐藤が大はしゃぎで告げた。
「ついに!あの藤井のヤローに天誅が下されますた」
喜色満面、瓦版屋のように報告するには。
廊下で、例のごとく取り巻きの女子生徒たちに囲まれていた藤井が、通りがかった奈津子先生に呼びつけられ、国語準備室へ“しょっぴかれて”行ったのだという。
「マンツーマンでさあ。そりゃあもうキツくお灸をすえられてたぜ。『教師としての自覚が足りない!』ってさ。あの奈津子先生のカンロクだからさ、さすがに藤井も神妙なツラでハイハイって」
「・・・まるで、見てきたみたいだな」
「見てたもの」
「はあ?」
「隣りの資料室の窓から身を乗り出してさ。一部始終を見届けましたよ」
「おまえ・・・」
「だって、こんな痛快なシーンを見逃せる?いやあ、さすがは奈津子先生だよ。特に声を荒げるとかじゃないんだけどさ、それでもスッゲエ迫力で。覗いてるオレも、思わずビビったくらい」
「・・・そりゃ、覗きが見つかってたら、藤井以上に怒られてたろうけどな」
「ああ、けっこう怖かった。でも危険を冒した甲斐はあったぜ。あの藤井がションボリうなだれてる姿、ククク、思い出しただけでさあ」
「・・・ふうん」
本当だろうか?と疑問に感じる。
そんな神妙なタマだろうか。
(でも、母さんには弱いって言ってたしな)
ならば、それなりにこたえたということだろうか。
まあ、昨日あんなふうに口止めを頼んでおいて、性懲りもなく女子生徒と騒いでいたというのだから、自業自得だ。