朝礼が終わって、教室へと戻ったときに、「残念ながら、男のほうらしいぜ」後ろの席の佐藤が、そう教えた。






「・・・え?」






「実習生。うちのクラスに来るのは、男のほうらしい」



「ああ。そうなんだ」






つまり、今しがたの朝礼で紹介された二人の教育実習生のうち、男のほうがこの二年A組付きになるという情報だった。






「ツイてねえよな。せっかく、女子大生とお近づきになれるチャンスだったのにさ」



「うーん・・・女子大生つってもなあ」






いかにも無念そうな言葉に、修一は同調する気になれない。



女性のほう、佐藤の拘る“女子大生”は正直さほど“お近づき”になりたいタイプでもなかった。






「それでも、ニヤけた優男よりは何倍もマシだ」



「・・・まあ、そうかもな」






譲らない佐藤に適当に合わせながら、周囲をうかがってみる。



その情報はすでに広まっているようで、教室の雰囲気は少し違っている。



なるほど、女子生徒のほうが盛り上がっているみたいだ。



やれやれと修一が軽いため息をついた時、チャイムが鳴った。






「藤井恭介です。よろしく」






落ち着いていた。颯爽とした感じ。



確かに“優男”という形容が似合う、いま風の二枚目。



髪はサラリと流し、スーツの着こなしも洒脱で、およそ“教師のタマゴ”といった初々しさは感じられない。



自然、女子の間には熱っぽいひそひそ声が交わされ、逆に男子には本能的(?)な反発の空気が広がる。






「ケッ」






佐藤が吐き捨てる声に苦笑しながら、“これなら地味な女実習生のほうがマシだったか”と修一も思った。



複雑な注視を浴びる若い見習い教師は、そんな空気は意にも止めない様子で出席をとりはじめた。



ひとりひとり呼び上げては、顔を確認していく。



声も淀みなく、冗談めかした媚態をこめた返事にも不機嫌な応答にも、動じることなく飄然と。






(もう少し不慣れなところを見せたほうが、印象がいいのにな)






修一は内心に呟いた。






そんな思考を浮かべてしまうのは、家庭環境からのクセのようなものだった。






「加橋、修一」



「はい」






ごく普通に答えた修一と、藤井の目がはじめて合う。






「・・・・・・」



「・・・?」






他の生徒より長くマジマジと見つめられた気がしたが、はっきり不自然な間合いになる前に、藤井は出席簿に目を戻した。






(気のせい・・・だよな)






無論、今日はじめて顔をあわせた教生に目をつけられる理由など思い当たらないから、修一は軽く流した。






それが気のせいではなくて、しかるべき理由もあったことを知ったのは、四時限目の授業が終わったとき。



この時間、現国の担当教師とともに現れた藤井は、授業の後半を引き継いで教壇に立った。



やはり、そつのない授業ぶりだった。



感心する半面“どこまでも可愛げはないなあ”と呆れていた修一は、廊下に出たところで藤井に声をかけられた。






「君は、加橋先生の息子さんなんだって?」



「ああ・・・はい」






修一が頷くと、藤井はやけに嬉しそうに、






「僕は、加橋先生の教え子なんだよ」






「ああ・・・」“そういうことか”と修一は納得した。






藤井もこの高校のOBだというのだから、もっと早く思いあたってもいい可能性だったが。



・・・うざったいなと、感じる。






「先生にも久しぶりにお会いしたけど。全然変わってなくて嬉しかったな。僕も加橋先生みたいな教師になりたくて、教職をとったわけだからね」



「そうなんですか」






気のない相槌をうちながら、“そんなこと俺に言われてもなあ”とか。



だいたいルール違反だと思える。



無論、修一がこの学校に勤める女教師・加橋奈津子の息子であることは周知の事実だ。



少なくとも、教職員には知らないものはいない。



しかし、平素の生活の中ではそのことに触れないのが、暗黙の了解事であるはずだった。



まあ、藤井はまだ教師のタマゴに過ぎないのだから、大目に見るべきだろうが。



母が、このように教え子から慕われているということには、悪い気はしなかったし。






「ま、これもなにかの縁だから。短い間だけど、よろしく頼むよ」



「こちらこそ」






ポンと肩を叩かれるのも、馴れなれしさが過ぎる気がしたが。



とにかくも、ひと段落ついた会話に安堵して。



軽い足取りで立ち去る藤井を見送って、「・・・ま、たったの二週間だからな」あまり気にしないでおこうと、修一は思った。






「実習の藤井先生って、母さんの教え子だったんだって?」






それでも、夕食の席での話題には乗せてみた。






「ええ」






箸を止めて、奈津子は答えた。



銀縁眼鏡の奥の知的な瞳が修一をとらえる。






「藤井くんから聞いたの?」



「うん」






「・・・他に・・・なにか言ってた?」



「うん?ああ、母さんに憧れて教師を目指したとか」






フッと奈津子は微苦笑して、






「点数かせぎのつもりかしらね。昔から、口の上手な子だったから・・・」






「でも、そういうのって嬉しいんじゃないの?」



「まあ、ね」






「・・・藤井先生って、どんな生徒だった?」






別に興味もないが、話の流れとして訊いてみた。






「優秀だったわよ。真面目だし」



「ふーん」






優秀というのはわかるが。



真面目ってのはどうだろう?という思いから、「女子はさ、浮かれてるヤツがけっこういるね。その分、男子には受けが悪いみたい」そんなことを伝えてみた。






奈津子は少しだけ困ったものだという表情を作って、






「仕方ないわね。年が近いから、多少はそういうことも」



「そういうもんかな」






「毎年のことよ。実習生が来るたびに」






慣れっこだというふうに、ベテラン教師である奈津子は言って。



どうということもないままに、その会話は終わった。



つまりは、母とっては藤井恭介も、数多い教え子のうちのひとりに過ぎないのだと。



そう、修一は理解し納得した。






五日が過ぎた。



藤井センセイはしごく好調に実習を消化しているように見える。






「つーか、絶好調じゃん?」






気にいらねえと、佐藤が大多数の男子生徒の気持ちを代弁する。



鞄に教科書を移していた修一は、またかと思いつつ、佐藤が睨みつけているほうを見やった。



放課のHR直後の教室。



教壇のあたりで藤井が数名の女子に囲まれている。



すでに見慣れた光景だ。






「加橋さあ、奈津子先生に注進して、ひとつガツンと言ってもらってくれよ」



「注進って・・・なんて言うんだよ?」






藤井が加橋奈津子教諭の教え子であるということは、すでにかなり広まっている。



藤井自身が折にふれては口にしているようだ。






「生徒とうちとけるのは、悪いことじゃないだろ」



「甘い、甘いぞ。なにか問題が起こってからでは遅いんだよ」






PTAみたいなことを言う佐藤だが、それがやっかみに過ぎないことは明白だ。






取り合おうとしない修一に、佐藤が口調を変えて、






「そりゃあ、クラスのバカ女がいくら藤井に靡いても、加橋にゃどうでもいいだろうけどさ。しかし、まるっきり他人事でもないんよ?」



「はあ?」






「アイツ、しのぶ先生にもコナかけてるらしいよ」



「・・・・・・」






「ホラ、顔色が変わった。な、捨ておけねえだろ?」



「・・・いや、どこでそんな情報仕入れてくるのかと思ってさ」






でも、一瞬ドキリとしたのも事実。






いやな気分になったのも事実だったから、「桜井先生が・・・相手にするかな」つい、修一はそんな言葉をこぼしてしまった。






取り巻きを従えて、ようやく教室を出ていく藤井を、少しだけ細めた目で見送りながら。






「そう信じたいけどさ、オレも」






力をこめて佐藤は頷く。






とにかく藤井を男子生徒共通の敵だととらえているようだ。



・・・佐藤が女に縁がないのは、もとからのことだったはずだが。






「加橋、おまえ、今日も部活でしのぶ先生に会うだろ?釘をさしとけよ」



「今度はそっちかよ・・・」






呆れたように返しながら。



ちょっと考えてしまう修一。






確かに。桜井しのぶ教諭は修一の所属する美術部の顧問であるから、毎日のように顔を合わせる。






(けどなあ・・・)






どうすりゃいいやらと思案しながら部活に出た修一だったが。






「先生、聞きましたよう」






女子部員のひとりが、あっさりと解決してくれた。






「教生の藤井先生と、かなり親密らしいじゃないですか」






(寺田、ナイス)






その寺田という女子に、心の中で点を与える修一。



日頃は幽霊部員のくせに、ゴシップ目当てで出席したらしいことも許す。






「そんなんじゃないわよ」






他の部員のそばに立って、製作中の絵への助言を与えていた桜井先生は、苦笑を向けてそう言った。



あまり美術教師というイメージにはそぐわないような、淑やかな容姿と物腰の女教師だ。



長い艶やかな髪を大きくまとめて背に流している。






「えー、でも、お二人が睦まじく話してる現場は、何人もの生徒に目撃されているわけですが」






芸能リポーターよろしく追及する寺田。



どうやら彼女は藤井のシンパではないらしい。



しかし、桜井先生は余裕の笑みで受け流す。






「大学がね、私も東京だったでしょう?それで、住んでいたところも、いまの藤井先生の住まいと近くでね。そういう話題で、ちょっと盛り上がったの。それだけです」






動揺を見せない態度に、修一はひとまず安堵する。






しかし、なおも食い下がる寺田や、その尻馬にのりはじめる他の部員たちに対応する先生の表情は、満更でもないというようにも見えてしまって、チクリと胸を刺す。



さほど強くハッキリとした感情を桜井しのぶに向けているわけではないが。



好意と親近感を抱く女教師が、いきなりやってきた実習生と妙な関係になってしまうのは、面白いことではない。






(・・・結局、俺も佐藤たちと変わらないか)






などと、自嘲していると、






「・・・加橋」






不意に隣りから声を掛けられた。



妙におどろおどろしい声を。






ふり向けば、カンバスを並べていた三年の久保が暗い目でにらんでいた。






「なんすか、部長?」






聞き返しながら、あ、この波動は最近すっかり馴染みがある・・・とか思った。



この春、定年で引退した前任に代わって桜井先生が顧問となったときには、本当に嬉し泣きに泣いたという久保である。



美術部のマドンナへの思い入れは修一などよりずっと深いことはわかっていたから。



果たして、久保部長は思いつめた口調で切り出す。






「藤井ってのは、加橋先生の教え子だったんだってな?」



「あー、そうらしいすけどねえ」






ポリポリと頭をかいて。



修一は、聞かずともわかる久保の言葉の続きを遮って、「まあ、あと10日もすれば、いなくなるわけですから。心配することはないでしょう」力をこめて、そう言い切った。






(・・・しかし。母さんって、やっぱ、そういうイメージなんだな)






鶴の一声とか、若造なんぞ、ひと睨みで黙らせるとか。



そういう存在だと、みなが認識しているのだなあと、改めて確認した。






藤井らの実習期間が残り半分となった頃には、修一は心底うんざりしていた。



相変わらず闊達に過ぎる勤務ぶりの藤井に対して、加橋先生の影響力の行使を望む声を何度となく聞かされるはめになっていたからだ。



しかし、“女子生徒にモテすぎて男子のやっかみがうるさいから、なんとかしてくれ”などと母には言えない。



また、奈津子のほうからも、藤井の実習態度について、修一に尋ねるということはなかった。



かつての教え子だということを考えれば、やや冷淡な態度にも思えたが。



直接の監督係ではないという立場から、口出しを謹んでいるのだろうと修一は推測した。



母の性格からして、いかにもなことである。



そして、母の対応がそのようであれば、ますます修一からは、つまらぬ訴えなどしにくくなってしまう。



結局、修一は、周囲からの懇請へのお決まりの返答、“あと数日の辛抱だから”という言葉を自分にも言い聞かせて。



その日を真剣に待ちわびるようになっていたのだが。



皮肉舐めぐり合わせというのか。



放課後、部活へと向かう途中の廊下で、親しげに話しこむ藤井と桜井先生の姿に出くわしてしまう。






足を止めて、楽しそうに談笑する二人を、遠く修一は眺めた。



そのそばを通りぬけるのもためらわれたし、きびすを返して回り道をするのも馬鹿げている。



幸いにも、ほどなく二人は話を終えて。



桜井先生は美術室の方へと向かっていった。






「・・・やあ」






藤井が修一に気づいて、歩みよってくる。






「うん?どうしたのかな。そんなに睨みつけて」



「・・・」






睨んでいるつもりはないが、憮然たる顔になっていることは、修一も自覚する。






藤井が笑う。



どうしたと聞きながら、修一の内心など見通しているように、






「心配はいらないよ。別に、桜井先生に対して、妙な下心は持ってないから」



「別に、そんなことは・・・」






カッと頭に血を昇らせながら返した修一を、まあまあとなだめて、






「確かに、彼女、なかなか魅力的だとは思うけど。俺は、それほど趣味でもないな」



「・・・・・・」






修一は、思わず呆気にとられる。



急にくだけた藤井の口調と、倣岸すぎる言いぐさに。






「そう。好みというなら、奈津子先生のほうだな。俺は」



「はあっ!?」






素っ頓狂は声を張り上げてしまった。






(・・・な、なに言ってんだ?こいつ)






「憧れてたってのは、単に教師としてだけじゃないってことさ」






「・・・趣味、悪いんですね」



「どうして?奈津子先生は綺麗なひとじゃないか」






他意のない口調で藤井は言った。



それは・・・事実だ。



修一もひそかな自慢に思っている。






だが、何故だか感情を害されてしまって、






「・・・そんなこと言うの、藤井先生だけですよ」






つい反論してしまった。






「そうなの?うーん、確かに威厳があるからな、奈津子先生は。気安く話題にはしにくいかな」



「それ以前に、年が・・・」






藤井の見解に正しさを感じながら。



なおも修一は、そんな言葉を続けてしまう。



現実に高校生の子供を持つ母親であるのだから。



容姿のことなど、生徒たちの関心の埒外だろうと。



それは、修一と三才しか違わない藤井にしても同じことであろうと。



・・・やけにムキになって、藤井からの母への賞賛を否定したがっている自分に気づく。






(なにやってんだ?俺)






こんな妙な話題で、話したくもない相手と話しこんでしまって。






「まあ、ともかく」






修一のバツの悪さを知ってか知らずか、藤井は明るい声で、






「そういう憧れもあるぶん、奈津子先生には弱いんだな、僕は。だから、あまり悪い評判は先生の耳に入れないでくれよ?桜井先生のことだって、本当になんでもないんだからさ」



「・・・はあ。言いませんけどね」






頼むくらいなら、少しは慎めばいいじゃないかと思う。



・・・なにか、話をはぐらかされた気もした。



消化しきれないものが残ったような。



思いがけず会話の機会を持っても、修一の藤井への心象は良くはならなかった。



逆に、その存在への疎ましさを強めただけだった。






翌日。






「ニュース!じつに愉快きわまるお知らせ!」






昼休みが終わる頃教室に戻ってきた佐藤が大はしゃぎで告げた。






「ついに!あの藤井のヤローに天誅が下されますた」






喜色満面、瓦版屋のように報告するには。



廊下で、例のごとく取り巻きの女子生徒たちに囲まれていた藤井が、通りがかった奈津子先生に呼びつけられ、国語準備室へ“しょっぴかれて”行ったのだという。






「マンツーマンでさあ。そりゃあもうキツくお灸をすえられてたぜ。『教師としての自覚が足りない!』ってさ。あの奈津子先生のカンロクだからさ、さすがに藤井も神妙なツラでハイハイって」



「・・・まるで、見てきたみたいだな」






「見てたもの」



「はあ?」






「隣りの資料室の窓から身を乗り出してさ。一部始終を見届けましたよ」



「おまえ・・・」






「だって、こんな痛快なシーンを見逃せる?いやあ、さすがは奈津子先生だよ。特に声を荒げるとかじゃないんだけどさ、それでもスッゲエ迫力で。覗いてるオレも、思わずビビったくらい」



「・・・そりゃ、覗きが見つかってたら、藤井以上に怒られてたろうけどな」






「ああ、けっこう怖かった。でも危険を冒した甲斐はあったぜ。あの藤井がションボリうなだれてる姿、ククク、思い出しただけでさあ」



「・・・ふうん」






本当だろうか?と疑問に感じる。



そんな神妙なタマだろうか。






(でも、母さんには弱いって言ってたしな)






ならば、それなりにこたえたということだろうか。



まあ、昨日あんなふうに口止めを頼んでおいて、性懲りもなく女子生徒と騒いでいたというのだから、自業自得だ。






「まあ、これで残りの期間は、大人しくなるんじゃないか」



「だな。ありゃあ、さすがに懲りただろうから」






力をこめて頷く佐藤に、藤井を叱責したときの母の迫力を想像させられて、修一は苦笑したが。



自分とて、それを痛快に感じていることは否定できなかった。






その夜。



夕食後、自室で机に向かっていた修一は、マグカップのコーヒーが空になったのをしおに勉強を中断して立ち上がった。



階下におりると、湯上りの姿の母がいた。






「修一も、入っちゃいなさい」



「うん」






返事をかえしながらキッチンに入り、マグにコーヒーを注ぐ。



立ったまま、ひと口すする。



白いバスローブ姿で、リビングのソファに座る母を眺めた。



肩にかけたタオルで洗い髪を乾かしている。



無論、それは修一には見慣れた光景だが。



あらためて見れば、昼間学校にいるときとは、ずいぶん印象が変わる奈津子である。



化粧を落していることは、さほど関係ない。



もともと、ほんの薄いメイクしかしない母であるから。



印象を変えている大きな要因は、眼鏡を外していることだ。



やや堅苦しいデザインの眼鏡を外すと、奈津子の外見はグッと柔らかなものになる。



本来の秀麗な容貌が、あらわになる感じだ。



それは、父が亡くなってからは、ひとり修一だけが知る姿のはずだったが。



『奈津子先生は綺麗なひとじゃないか』藤井は、こんな母の顔を見たことがあるんだろうか?



それは、一年も担任教師と生徒として接していれば、眼鏡を外したところを目にする機会くらい、あってもおかしくはないが。






「・・・どうしたの?」






修一の視線に気づいた奈津子が訊いた。






「あ、うん」






瞬時、襟元の白い肌に吸い寄せられた眼を慌ててそらしながら修一は答えて。



カップを手に母の向かいのソファに腰を下ろした。



奈津子は物問い顔のまま、修一を見つめている。



気遣いを含んだ表情は、教師ではなく母親のものだ。



それは、やはり自分だけに向けられる貌に違いないと思えた。






「聞いたよ。藤井先生に、お灸をすえたんだって?」






夕食のときには持ち出さなかった話題を口にする。






奈津子は、わずかに眉を寄せて、






「誰から聞いたの?」



「ああ・・・母さんが藤井を連れてくところを、クラスのヤツが見てて・・・」






隣室から窓越しに覗いていたことは言えないが。






そう、と奈津子は頷いて、






「職員室でも問題になってたし。たまたま、そういう場面に出くわしたから」



「元担任としては見過ごしておけなかったと」






「・・・本当は、監督は修一のクラスの根本先生だから。出すぎたことはしたくなかったんだけど」



「うーん、でも、母さんからの注意のほうが効き目があったんじゃない?」






「そうだといいんだけど」






苦く笑う奈津子に、修一はふと気づく。



母は、藤井のことがあまり好きじゃないみたいだなと。



考えてみれば、藤井が実習生としてやって来てからの母の態度は、あまりにも冷淡であったと思える。



直接の指導係ではないという遠慮があるにしてもだ。



家でも、ほとんど話題にすることさえなかったのだから。



意外に感じるのは、母の教師としての教え子への愛情の強さを知っているからだったが。



同時に当然だという気もする。



行状の問題ではなく、藤井のような、どこか人を舐めているような輩は、母が最も嫌うタイプであるはずだから。



その確信は、余計に修一の気分を良くした。






「まあ、アイツも、さすがに懲りただろうしね」






つい、内心のままに、アイツなどと呼んでしまう。






「それに実習期間も、もう一週間も残ってないんだし」






藤井ではなく、母をフォローするつもりで、そんなことを言った。






「そうね・・・あと少しのこと、だから・・・」






頷いて。しかし、奈津子の貌には微かな翳りがさす。



残された日数を数えるような眼をして。



無理もないかと、修一は納得した。



母の立場からすれば、本当にすべて終わるまでは安心できないのだろうと。



つまらないことで母を悩ます藤井に対して、また怒りをわかせたが。






(まったく。とんだ疫病神だったな)






内心に毒づいた言葉は、しかしすでに過去形になっていた。



ほぼ終わったこととして、修一の中では落着していたのだった。






それなのに。






そのたった二日後だ。



ありうべからざる光景を目撃することとなったのは。






放課後の国語準備室。



母と藤井。



藤井の腕に抱きすくめられている母の姿。



息をつめて、愕然と眼を見開いて、修一は凝視していた。






発端は部活を終えて昇降口へと向かっていた途中。



廊下で話している桜井先生と藤井の姿を見つけた。



顧問の仕事を終え職員室へと戻ろうとした女教師を、藤井が捕まえたらしい。



後から部室を出てきて、その場面に出くわした修一が最初に感じたのは呆れだった。



アイツ、まだ懲りてなかったのかと。






数日前に修一が見たのと状況としては同じだったが。



このときの桜井先生には困惑の気ぶりがありありと見てとれた。



前回より人目につきやすい場所で、部活を終えた生徒の帰宅時間にぶつかっているせいだろう。



藤井は、そんな相手の反応もかまわずに馴れ馴れしさを押し出しているから。



傍目には無理やり口説きにかかっているように見える。



今度は、修一は見過ごそうとは思わなかった。



母の気苦労もしらず、叱責を受けたあともこんなことを繰り返している藤井に対して、強い怒りを感じたから。






だが、修一が行動に出るより早く、「藤井先生」低く、しかしよく通る声が割って入った。






奈津子だった。



カツカツとヒールを響かせてふたりに歩みより、眼鏡ごしに冷ややか眼を藤井に向けて、






「話があります。一緒に来てちょうだい」



「あ、そうですか。じゃ、桜井先生、これで」






抑えた中にも、はっきりと怒気を滲ませた奈津子の声を聞けば、どんな用件なのかは明白であったが。



藤井は悪びれた様子も見せずに軽く諾って、奈津子の後に付き従っていった。



遠ざかるふたりを見ながら、修一は桜井先生に歩みよった。






「・・・先生」



「加橋くん・・・」






ビクリと振り向いた桜井教諭は、相手が修一だとわかると一瞬安堵を見せ、すぐにバツの悪そうな顔になって、






「あ、見られてた?」



「ええ・・・たまたま、通りかかって」






「あちゃ、変なところ見られちゃったわね」



「別に、先生が気にすることないですよ。母・・・加橋先生が現れなかったら、俺が・・・」






助けに・・・と言いかけて、気恥ずかしさに言葉を誤魔化す。






「フフ、ありがとう」






微笑んだ女教師の言葉に、さらに照れくさい思いになって、






「あ、でも、ひょっとしたら、お邪魔でしたかね」



「なに言ってるの。・・・正直、奈津子先生がいらしてくれて、助かったわ」






ポロリと、本音をこぼした。






「藤井先生って、ちょっと苦手。あたりはいいけど、本当はなにを考えてるのか、わからない気がして・・・」



「ただの、お調子者じゃないすか?」






「コラ、そんな言い方・・・って、私も生徒を相手にこんなこと言っちゃいけなかったのよね。いまのは内緒よ?加橋くん」






ハイと、修一は頷いて。



母と藤井が姿を消したほうを見やった。






「ま、なにを考えてるかわからない藤井センセイは、これからタップリと絞られるでしょうね。二度目だし」



「もう、それはいいってば」






桜井先生は可愛らしく頬を膨れさせて抗議してから、






「でも、ちょっと同情しちゃうかな。奈津子先生、怒ると怖いから・・・あ、これも内緒よ?」






笑いあって師弟はその場で別れた。






桜井教諭は職員室に向かった。



修一も昇降口へと向かい帰路に着く・・・べきところだった。



二、三歩行きかけて足を止めた。



ふりかえった。






「・・・」






母と藤井が向かったのは、職員室の方向ではなかった。



多分、また国語準備室だろう。



しばしの逡巡のあとに、修一は踵をかえした。



早足に進み、階段を上りながら、自分の行動に驚いていた。



きっかけの第一は、先日佐藤から聞かされていた話だ。






隣りの資料室から覗けたと。






動機としては──



佐藤と同様に、叱責される藤井の姿を見たいという気持ちもあった。



今度こそ徹底的に叱られて凹むさまを見届けて溜飲を下げたいと。



だが、それだけでもなかった。



母に呼びつけられたときの藤井の平然たる態度に、漠たる不安を感じた。



行く先の部屋では、多分母と藤井はふたりきりになる。



だから、どうした?と問い返す声も聞こえた。



無論、真剣に不安がるのは馬鹿げている。



結局それは、野次馬根性からの行為への言い訳にすぎないのではないかと自問して。



まあ、そんなところだなと自答した。



それでも、足は止まらなかった。



これくらいはいいだろうと思った。



アイツにイヤな気分を味合わされた回数は、他の生徒たちより多いはずだから。



つまりは。



このときの修一に“ムシのしらせ”といったような予感はなかった。



忍び足で資料室に入りこみ、音を立てないように窓を開けて、窓枠に上りそっと身を乗り出していきながら。



その意識を満たしていたのは、ささやかな悪戯を働くときの緊張と高揚だった。だから。






夕陽を映す窓ごしに見えた準備室の風景。



部屋の中央のあたりで身を寄せて佇むふたりの姿に。



背後に立った藤井の腕に体を抱かれている母、という光景に。



修一は思考が止まるほどのショックを受けて、窓枠に張り付いた無理な態勢のまま、凍りついてしまったのだった。






「・・・やめなさい・・・」






母の声が耳に届き、修一は自失の状態から我にかえった。



助けなくては・・・と、当然な焦燥を感じて。



しかし、体が動かない。



その光景から、眼を離すことができなかった。






「・・・放して・・・」






また、母が拒絶の言葉を吐く。



硬くこわばってはいるが、掠れた弱い声だった。



何故・・・そんなにも弱い声音なのだろう?



フッといやらしい笑みを浮かべた藤井が、奈津子のうなじへと口を寄せる。






「いやっ」






ビクリと戦慄いて、奈津子が身もがく。



しかし、その抵抗の動きも、あまりにも弱々しい。



体にまわされた腕の拘束は、そう強いものとは見えないのに。






(・・・どうして・・・?)






そう疑問を感じてしまったから、修一は動き出す機会を逸した。






そして、






「フフ、懐かしいな。この抱き心地も、匂いも」






(・・・っ!?)






逃げようとする母の首筋に鼻先を寄せて、陶然と洩らした藤井の言葉に、完全に動きを封じられてしまった。






「変わってないね。二年前と同じだ」



「よしてっ、こんな場所で」






「いいじゃないですか。あの頃には、ここでも何度も楽しんだじゃないですか」






笑いながら、藤井の手が奈津子の隆い胸へと伸びる。



それを振り払って、ようやく奈津子は藤井の腕の中から脱け出た。



数歩の距離をとって、護るように己が体を抱きながら、藤井を睨みつけた。






「もう、あんな関係に戻るのはイヤよっ」






必★な叫び。



それを盗み聞いて、息が止まるほどの衝撃を受けている者の存在には気づかずに。



フム・・・と、藤井は腕組みして軽く首をかしげてみせた。






「なるほど。だから、ずっと僕のことを避けていたわけですね」






奈津子の無言の肯定を待って、






「でも、それなら、何故いまになって、接触してきたんです?先日だって今日だって、呼びつけたのは奈津子先生のほうだ」



「・・・・・・」






「それも、二度とも、ふたりきりの状況を作って。だから、僕は、誘われてるのかなって・・・」



「ふざけないでっ」






憤怒にふるえる声が藤井の冗舌をさえぎる。



平素、決して見せたことのない、奈津子の激情ぶりだったが。



藤井は平然とそれを受け止めて、






「まあまあ。もちろんわかってますよ。人目のあるところじゃ、なにかと差し支える話がありますからね。僕たちの場合」






もっと漏らしく首肯して。



嬲るような眼で奈津子を眺めて。






「もちろん、今もちゃんと手元に置いてますよ。“あの頃”の記録は」



「・・・ッ!」






「フフ、やっぱり、そのことが気にかかっていたわけでしょ?なら、最初から、そう訊けばいいのに。こないだだって、いつその話になるのかと待ってたら、結局最後までどうでもいいような御説教で」






ゆっくりと、藤井は歩を詰めた。



すくんだように立ち尽くす奈津子へと。



気障な仕草でおとがいに手をかけて、蒼ざめた面を仰のかせる。



黒い愉悦をたたえた眼で奈津子の貌を眺め、やはりゆっくりと顔を近づけていった。






「いやッ」






拒絶の言葉を吐いて奈津子が顔を背けると、藤井は動きを止めて心外だという表情を作った。






「久しぶりだからって。また、面倒な段取りを踏まなきゃなりませんか?写真がどうのって、あんまり不粋な話はしたくないんですけどね」



「・・・・・・」






奈津子から抵抗の気ぶりが消える。



あっさりと藤井は唇を奪った。



しばし、室内には忍びやかな息遣いの音だけが響いた。



眉間に深い苦痛の皺を刻み固く唇を引き結んで、蹂躙に耐えていた奈津子は、しかし藤井がさらに濃厚な行為に移ろうとすると、両手でその胸を押しやって唇を引き剥がした。






パシッと平手打ちの音が鳴る。






「・・・あ、あなたという子は・・・」






荒く肩を喘がせながら、震える声を絞り出す。






藤井は打たれた頬を撫でながら、愉しげに笑って、






「フフ、懐かしいな、そんな言い方も。初めての時も、先生、こんなふうに僕を殴って」



「やめてッ」






奈津子は悲鳴のような叫びで、藤井の言葉を遮って、






「私、は・・・もう、あんなことは、絶対にッ」






ふりしぼるように、それだけ言い残すと、踵をかえして駆け出した。



体をぶつけるようにドアを開けて、準備室を出ていった。



揺れる扉の向こう、急いて乱れたヒールの音が遠ざかり、やがて消えた。






数分後。



半端に開いたままのドアが、音たてて開け放たれた。






「ん?」






窓際に立って煙草をふかしていた藤井がふりかえる。






「おや?どうした?」






拳を固め、血走った眼で睨みつける修一に、のんきな声で訊いた。



その表情も態度も、いまさっき恩師である女教師に狼藉を働いた人間のものとは思えない。






「奈津子先生なら、いないよ」






ぬけぬけと吐いた言葉が、修一の自制を砕いた。






「貴様ッ!」






怒号を発して、一足飛びに藤井へと駆け寄り、殴りかかった。






「うおっ、と」






焦った声を上げながら、藤井は軽くスウェイして、大振りな拳をかわす。






「なんだ?どうしたってんだ?」



「うるさいっ!貴様、母さんにっ」






かわされたことにいっそう激昂して、さらに腕をふりまわした。






「なんだ。どこから見てたんだ?覗きは感心しないなあ」



「黙れよッ」






「しょうがねえなあ・・・」






いかにも荒事には慣れていないといったふうな攻撃を易々と逃れながら、藤井がせせら笑う。






「騒ぎになったら、困るのは誰なんだ?」



「・・・ッ!」






「奈津子先生には、どう説明する?なんで、俺を殴ったかって。理由を言えるのか?」



「・・・・・・」






ギリッと歯噛みして。



修一は必★に自制を働かせて、振り上げた拳を下ろした。






「うん、懸命だな。奈津子先生のためにもね」






藤井は勝ち誇るような笑みを浮かべて。



手近な机の上の灰皿に煙草をもみ消した。






「・・・どういう・・・ことなんだよ?」



「そうだな。ここまで知ってしまったら、ちゃんと聞きたいよな」






あくまでも軽く。このなりゆきを愉しむように。



修一は憎悪の火を燃やした眼で藤井を睨みつけた。



聞きたいわけではない。



だが、聞かずにもいられないから。



修一は、固いつばを飲み下して、身構えた。






差し向かいの食事。



いつもと同じ夕べ。



そう、いつも通り。



なにも変わらない。






「・・・・・・」






機械的に箸を動かしながら、修一は母を観察する。



遠慮がちに。



母の様子には、やはりなんの異変も見受けられない。



なにもなかったかのように。



ふと、視線があった。






「どうかした?」



「・・・いや」






問いかけた声も、本当になにげないもので。



警戒や不安の匂いなど微塵もなく。



簡単に答えた修一のほうが、平静を装うのに多大な努力を要した。



結局、静かな夕食が終わるまで、修一は懸命な演技を続けねばならなかった。






「ふう・・・」






食後、すぐに自室へと戻った修一は、そのままベッドに倒れこんだ。






心身に重たい疲弊。頭の中が熱い。



あまりにも重大な事実を知ってしまった、この日。



片手を熱っぽい額にあてがい、半眼を閉じて。



数時間前の藤井との会話を思い出す。



どれだけ苦痛を伴おうと、いまはそうしなければならない。






『まあ、もうわかってると思うけど』






ヤツは──



突然現れて、自分たち母子の平穏な生活を掻き乱すあの悪党は、悪びれもせずにそう言ったのだった。






『二年前、そういう関係だったんだよね。奈津子先生の俺の担任だった一年間』






馬鹿な、と笑いとばすべき言葉。



しかし“あんな関係に戻るのはイヤだ”と、母は叫んだ。



修一はそれを聞いてしまった。



だから、どんなに信じがたくとも、現実として受け入れざるをえない。






だが。






母の悲痛な叫びは、ふたりの関係のありようをも告げていたはずなのだ。



けっして母が望んだものではなかったということを。






『そりゃあ、最初はちょっと強引だったかな』






しゃあしゃあと。



とぼけたところで、指し示す事実はひとつしかない。



藤井は暴力で母を犯したのだ。



しかし、修一は沸きあがる激甚な怒りのまま、母をレイプした憎むべき男に殴りかかることは出来なかった。



“写真”の存在を、藤井が思い出させたからだ。



卑劣な脅迫の材料。



気丈で高潔で、誰よりも教師という職務に誇りを持つ母に、教え子に体を開くという背徳と屈辱を受け入れさせた、忌まわしい記録は、いまも藤井の手元にあるのだという。






「・・・クソッ」






修一は、力まかせにベッドを叩きつけた。



無意味な行為。



そのままいまの自分の無力さを物語るようで。



悔しくてたまらない。



二年前、母が苦痛と不安に苛まれていた時間を、自分はまったく気づいてやれなかった。



そしていまもまた、舞い戻ってきた悪魔に狙われる母に、なにひとつしてあげることが出来ないのだ。



『言うまでもないとは思うけど。



君がすべて知ってしまったこと、奈津子先生には言わないほうがいいよ』もっと漏らしい忠告。



しかし、その通りだと思える。



母は、藤井との関係を自分に知られることを、なによりも恐れているに違いない。



だからこそ、藤井が実習生として戻ってきて以来の内心の懊悩を完全に覆い隠してきた。



さらに追い詰められた今日も、億尾にもそんなことは表さなかった。



感嘆すべきその強さが、切なく悲しい。



それが母親としての情愛のゆえだとわかるから。



その想いに応えようとすれば。



自分は、なにも知らないふりを続けるしかないのだ。






「・・・ちくしょう・・・」






きつく閉じた眦から流れ出た滴を拳でぬぐって。



修一は力ない呟きをこぼした。