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アイドルになれなかった浅倉好未18歳の最初で最後の写真集は・・・









35歳の主婦です。

私は中学生になってからとてもモテました。

大人からも可愛いと言われて、将来は芸能人とまで言われました。

私は、高校生になって芸能事務所にスカウトされて、アイドルを目指しました。

芸名を「浅倉好未」と名乗り、制服や水着でモデル活動から始めましたが、なかなか売れず、事務所の社長に泣き言を言っているうちに優しく口説かれて、高1で社長に処女を奪われました。

社長は当時37歳と若く、インテリジェンスのある優しそうな顔をしていましたので、少なからず好意もありました。




その後、社長に体を玩具にされることで小さな仕事をもらうようになっていました。

週2~3日、高校の制服姿で縛られて羞恥に満ちた格好で性的に辱められたり、素っ裸でベランダでバックからセックスされたりしました。

股を開かされて縛られた私は、社長にクリトリスを指で摘まれ、思わず腰を突き上げていやらしい悲鳴を洩らしてしまいました。

社長は、クリトリスの皮を慎重に剥いて、指先に唾をつけてクルクルと淫靡な愛撫をしました。

脳天がしびれるような快感に、身を捩らせて喘ぐ私をニヤニヤしながら見て、更にクリトリスをキュッと摘まんで皮を剥いたり戻したりするように扱かれて、私は仰け反って逝かされてしまいました。




そんな責めを受け続けていたある日、社長は、ゼムクリップを変形させたものを包皮を剥き上げられたクリトリスを挟むように嵌め込みました。

社長が指を放すと、ゼムクリップの変形した環がキュッと締ま理ました。

「ンガアッ!」

鋭敏な突起を剥き上げられて締め付けられる感触に、私は腰を慄わせました。

恐ろしい事に、この環はちょっとでもクリップに触れたらその刺激を直に伝え、淫靡な快感を与えるのです。

クリップを爪でツンツンされて、私はビクビク恥ずかしく反応しました。




そんな状態で社長のペニスを挿入されると、欲情し切った体はやっと与えれたペニスを喜んで受け入れてしまうのは、女子高生の私にとって、たまらなく恥ずかしいことでした。

執拗な体への愛撫で愛液れまみれのアソコは、社長のペニスの侵入を簡単に受け入れて、しかもその快感を私は全く否定出来ないどころか、むしろ歓迎して腰を振っていました。




社長は、私が容易く逝ってしまうとクリトリスからクリップを外しても絞り出されて飛び出たままになったクリトリスにバイブの振動を与えるので、飛び上るように覚醒するのでした。




時には学校を休んで、クリトリスを責められ続けて逝きっ放しにさせられ、発狂する程淫らな姿を披露していました。

夕方になってやっと抱いてもらったときは放心状態で、敏感になり過ぎた体をビクビクさせて再び逝きまくっていました。




それでもなかなかアイドルとして売れなくて、ついに高3の時に裏本モデルをさせられました。

はじめはイメージスナップでアイドル写真集みたいな撮影でしたが、少しずつ脱がされてランジェリー姿に、やがてガーターとストッキングだけになり、そして全裸に・・・

バイブで感じさせられて、フェラ、69、アソコを悪戯されて結局セックスに・・・気づいたら淫らな行為の全てを撮影されてしまいました。

当時、現役の女子高生でしたが、なぜか制服は着せられませんでした。




これが、アイドルになれなかった芸名「浅倉好未」の最初で最後の写真集になったのです。

高校卒業と同時に事務所も愛人も辞めて、髪型も変えて普通の女の子として歩み始めたと同時に、その時の写真が裏本として世に出たようです。

イメチェンをしていたせいで、気づかれなかったのか、気づいても黙っていたのか、指摘されたことはありません。






高校を出て生協に勤め始めたら再びモテ始めました。

愛人をして、ふしだらな悪戯に身を焦がして、淫らな写真を世に無修正で晒した私は、数年男性を遠ざけていました。




就職して4年過ぎた春、生協本部の新入職員のうち大卒の幹部候補が職場体験に来ました。

その男性は、私が中学時代に憧れたサッカー部のキャプテン・・・私はその意味をよく知りませんでしたが、中盤の底から試合を組み立てていく冷静沈着な彼は、必○のパスを供給する達人と言われていました。

その彼が、職場体験を終えて本部に帰るとき、

「同じ中学だったよね?今度、メシ杭に行こうよ。」

と言って、名刺の裏にメルアドを書いて渡してくれました。

それが今の夫です。




「中学の頃、男子生徒の憧れのアイドルと結婚した俺は、幸せだなあ・・・」

恥辱凌辱、クリトリス苛めに裏本出演、そんな過去に怯えながらも幸せに暮らす私です。










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